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シリーズ【人吉球磨の日本遺産】第二回『上球磨編』

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2025.04.08

観光

シリーズ【人吉球磨の日本遺産】第二回『上球磨編』

投稿者|人吉市地域おこし協力隊

こんにちは! 人吉市地域おこし協力隊の坂元です。

 

前回に続いて、今回もシリーズ【人吉球磨の日本遺産】をやっていきたいと思います。

 

第二回目の今回は『上球磨編』です。上球磨とは球磨川上流の地域を指し、今回は水上村、湯前町、多良木町の三町村の日本遺産をご紹介したいと思います。

 

相良氏は鎌倉時代初期、鎌倉時代初期の建久4年(1193)、相良頼景が多良木に所領を得て下向したといわれています。

 

そのため上球磨地域には人吉球磨の中でも古い時代の文化財が多く、見ごたえ抜群です。すべてをご紹介するのはさすがに難しいので、今回はいくつかピックアップしてご紹介いたします。よろしくお願いします。

 

 ①生善院観音堂(猫寺)

生善寺観音堂は、水上村にあります。通称「猫寺」と呼ばれており、寺の門の両脇には狛犬ならぬ「こま猫」が来訪者を迎えます。

 

ここにこま猫が奉納されているのには、「相良藩化け猫騒動」が由来です。

 

戦国時代、普門寺というお寺の僧侶が武士の謀略によって無実の罪を着せられて殺されました。その母がわが子を思い、愛猫・玉垂(たまだれ)に怨みを言い含め、わが子の後を追って自害します。以後、相良家では猫の怨霊が現れ、次々と奇怪なことが起きました。これが化け猫騒動です。その霊を鎮めるために、江戸時代初め、僧侶が住んでいたお寺の跡地に建立されたのがこの生善院なのです。その後、藩主を含め多くの人が市房山神宮の参拝の際に立ち寄りました。このエピソードから、生善院は『猫寺』という愛称とともに人吉球磨の人に愛されてきました。

 

観音堂内には国指定重要文化財の観音像と厨子があります。

 

②市房山神宮下宮(里宮神社) 

里宮神社は湯前町最大の神社で、人吉球磨地域の最高峰である市房山自体を御神体とし、その中腹に本宮を構える神社「市房山神宮」の下宮(本宮まで参拝できない人のための神社。遥拝所)です。

もともとこの場所には「湯前城」という中世のお城がありましたが、戦国時代に廃城となりました。その後、生善院でご紹介した化け猫騒動で破壊された普門寺が1604年に移設再建される際に湯前城跡に建てられました。この普門寺は市房山神宮の遥拝所としての機能を持っており、江戸時代後期に廃寺となった後もこの場所は民衆から市房山神宮を拝む場所として親しまれていました。そして昭和9年に市房山神宮の下宮として再建されたのです。

里宮神社は恋愛成就にご利益があるとされています。ぜひ恋人と一緒に参拝してくださいね。

 

 ③城泉寺阿弥陀堂 

 

城泉寺阿弥陀堂は湯前町にあります。城泉寺というお寺はすでになく、阿弥陀堂だけが残っている状態です。この阿弥陀堂は鎌倉時代に建てられた郡内で最も古い木造建築で、茅葺屋根が施されています。

 

もともと、このお寺は浄心寺という名前でした。明治時代、廃藩置県の末に熊本県になった際に、県内の寺社仏閣の調査が行われました。その際に、当時の人が字を書き間違えてしまい、城泉寺として登録されてしまったといわれています。

 

堂内には鎌倉時代に制作された木造の阿弥陀如来三尊像が安置されており、こちらは国の重要文化財に指定されています。阿弥陀堂と併せて、鎌倉時代の人吉球磨を感じさせる場所です。

 

 

 ④青蓮寺阿弥陀堂

 

 青蓮寺阿弥陀堂は鎌倉時代に建てられた多良木町にある茅葺屋根が特徴の阿弥陀堂です。中には木造阿弥陀如来像が収められているほか、全長155cmの大きな地蔵菩薩像もあります。

 

青蓮寺阿弥陀堂は13世紀末に上相良家の初代・頼景を供養するために創建されました。もともと、相良氏は今の静岡県牧之原市(旧相良町)を根拠にしていましたが、鎌倉時代に将軍から多良木や人吉に所領を与えられ人吉球磨に下向しました。

 

この時の人吉球磨は、在来の有力豪族が治めていたのですが、相良氏はその有力豪族たちを滅ぼしたり、取り込んだりしました。そして多良木に拠点を置いた惣領家を上相良氏といい、人吉に拠点を置いた分家を下相良氏といいます。

 

阿弥陀堂自体は15世紀半ばに一度再建されていますが、現在までその時の姿を保っており、国の重要文化財に指定されています。創建には飛騨(今の岐阜県北部)の工匠がかかわっていたことが柱に記されています。

 

中の阿弥陀如来像は阿弥陀堂建築の際に京都の有名な仏師によって製作されたものです。この仏師は京都の三十三間堂にある1,000体の仏像のうちのいくつかを製作した有名な仏師です。また、阿弥陀如来像自体には玉眼(翡翠でできた眼)と銀のつけ爪が施されており、かなり贅沢な一品だったようです。当時の相良氏の財力がうかがえます。

 

⑤太田家住宅

 太田家住宅は江戸時代の人吉球磨の暮らしを伝える建築物です。多良木町にあり、茅葺屋根とかぎ型の構造が特徴的な建築です。

 

太田家住宅は、元は江戸時代の新田開発のために現在の多良木、湯前、あさぎり町付近に作られた大きな新興集落の家の一つです。農家の家ではありましたが、同時に相良藩から焼酎造りも認められており、当時焼酎造りに使っていた道具が残されています。

 

特徴的なかぎ型の構造は当時の建築物にかかる税金を少しでも安くするための構造だそうです。立派な柱を使った木造で、部屋も広々としています。江戸時代の人吉球磨の生活が垣間見える建築物になっています。

 

 

まとめ 

今回はシリーズ【人吉球磨の日本遺産】の第二回『上球磨編』ということで、水上村、湯前町、多良木町の日本遺産をご紹介しました。上球磨地域は最初に相良氏が居を構えた地域なので、特に歴史がある建築物が集まっている地域でした。

 

次回は中球磨編として、錦町とあさぎり町の日本遺産の構成文化財をご紹介いたします。中球磨は上球磨とは一味違った歴史を持つ地域ですので、ご期待くださいね!

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