2024.11.18
林正盛という人物を知っていますか?
投稿者|地域おこし協力隊 坂元
こんにちは! 人吉市地域おこし協力隊の坂元です。
今年の夏は長かったですね~。人吉市内は9月は当たり前のように最高気温が35度を超え、10月になってもなかなか30度を下回る日が増えませんでした。11月に入ってようやく秋らしくなってきましたが、この暑さのせいで紅葉が遅れていたり、農作物への被害も懸念されています。さらに冬は冬で寒くなるとのことで、あまり秋を感じられない一年になりそうです。
さて皆さん、突然ですが『林正盛(はやし まさもり)』という人物をご存じでしょうか? 知らない方がほとんどだと思いますが、実はこの人は現在の人吉においてなくてはならない人物だったのです。
今日はそんな林正盛翁についてお話していきます。
林正盛について
本日11月12日、相良藩の菩提寺である願成寺にて『林正盛翁法要感謝祭』が執り行われました。これは、人吉市の舟運に際して多大なる貢献を果たした林正盛翁をたたえ、現在の球磨川の恵みを享受できていることを感謝する式です。
私はこの式典以前から林正盛翁のことは知っていましたが、この式典に参加するにあたって改めて林正盛翁のことを調べなおしました。まとめてみるといかにこの人の貢献が人吉市に影響を与えたかという部分がわかってきましたので、ご紹介したいと思います。
林正盛は江戸時代初期の人物で、丹波国・篠山の生まれです。篠山は現在の兵庫県丹波篠山市。奇しくも、人吉と篠山はともに『古い町並みを残す盆地』という地理的な要件が似通っています。そんな篠山を地元とする林正盛が人吉にやってきたのは、相良藩22代当主・相良頼喬(よりたか)が甥だったことが理由のようです。
林正盛は人吉で商人をしていました。41歳の時、厄年だった彼は厄落としのために球磨川の開削を決心します。そのとき(1661年)の球磨川は人吉から八代までの間を巨岩がひしめいており、とても船で下れるものではありませんでした。実際、林正盛が球磨川を開削する前は、交易や参勤交代などは球磨川沿いの険しい谷合を歩きや牛馬で進むか、球磨盆地を囲む山々を歩くしかありませんでした。
この球磨川開削の話は「伝説」として現代にも伝わっています。
球磨川の開削は、最初のうちは順調に進みました。しかし、途中で大きな壁にぶつかります。神瀬村から四キロほどのぼった大瀬には「亀石」と呼ばれる大きな岩がありました。この岩はあまりにも大きく、そして頑丈で、石工たちののみを全く受け付けなかったといいます。この岩をどうにかして除去しなければ球磨川を船で下ることは難しいので、林正盛はたいそう悩みました。
ある日、亀石を除去するために悩んでいた林正盛のもとに一匹の狐が現れます。悩みに悩んでいた正盛はたまらず「狐よ、なんとかあの亀石を取り除く知恵を貸してくれまいか」と問いかけます。狐はすぐに立ち去ってしまいますが、その日の夜に不思議なことが起こります。
夜、寝ている正盛の夢の中にお稲荷様が現れます。そしてお稲荷様から「のみではだめだ。石の上に枯れ木を山のように積み火をつけよ」といわれます。翌朝、いわれた通り亀石の上で火をたくと、石工のたがねが亀石に入り割ることができました。それを繰り返した結果、三日で亀石を取り除くことに成功したのです。
正盛はそのことに感謝し、自分の家の敷地内に稲荷神社を建てました。また、人々は亀石があった場所を亀割と呼ぶようになりました。
それからは球磨川の開削は順調に進み、3年の月日を経て開削を終えます。この時から、人吉の舟運が始まったのです。林正盛はこの功績を認められ、郡中の荷物問屋・川舟取締役、舟問屋の特権を与えられました。
このエピソードは「まんが日本昔ばなし」にも採用されていました。実際、人吉市の小学校では給食時間か昼休み中にこの回を放送していたそうで、その世代の方は知っているお話かもしれませんね。
ちなみに、この「岩を熱膨張でもろくする」という手法自体は、当時の日本でも京や江戸では使われていた技術でした。しかし人吉のような隠れ里に届くような技術ではなかったため、まさにお告げともいえる手法だったことでしょう。
しかし、どのような経緯でもいいのです。ここで大事なのは「林正盛が自主的に球磨川の開削を行い、それをやり遂げた」という部分だと思います。どんな困難も、あきらめず知恵を絞れば道は開けることを正盛翁は後世の我々に伝えてくれていると思います。
私も地域おこし協力隊として、林正盛翁の精神を見習いたいと思います。
ちなみに、大正13年には林正盛翁の功績がたたえられ、人吉城内の相良護国神社の敷地内に「林正盛翁頒徳碑」ができました。この碑は現在でも見ることができますので、相良神社へ行った際はぜひ見に行ってみてください。
そして現在
その後数百年は交通と物流の要として球磨川は活用されました。交易のコストが大いに減少したほか、参勤交代の際も経費削減に非常に大きな効果をもたらしました。これにより、相良藩の経済は大いに活性化したそうです。
そして明治時代に入り、鉄道が人吉まで通ったことで舟運は衰退します。このとき、船頭と川舟には大量の解雇者が出ました。しかし、人吉市内のとある旅館が観光資源としての球磨川と川舟に目を付け、滞在客向けの観光遊覧船をはじめます。これが『球磨川下り(くま川下り)』の原型となるのです。
この事業は見事にヒットし、紆余曲折ありながらも現代まで続いています。林正盛翁の成したことが現代までつながっている。歴史のロマンを感じますよね。
そんな林正盛翁に感謝して、毎年林正盛翁が亡くなった11月12日に法要感謝祭が実施されています。以前は南願成寺にあるご本人のお墓の前で行われていたようですが、現在では相良藩の菩提寺だった願成寺にてお経が挙げられます。これまでの人吉と、これからの人吉の発展を末永く見守ってほしいと思います。